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すべての世代がマンガを読む時代を作り上げた、マンガ家たちの革命を描く!『第二次マンガ革命史 劇画と青年コミックの誕生』(著・中川右介)発売中!

PR TIMES / 2024年3月12日 11時45分



[画像: https://prtimes.jp/i/14531/454/resize/d14531-454-a510ef81456e2faae05c-0.jpg ]

この度、『第二次マンガ革命史 劇画と青年コミックの誕生』が2月21日に発売となりました。現在、すべての世代がマンガを読むのが当たり前の時代ですが、戦後手塚治虫が完成させたストーリーマンガは、あくまでも小・中学生が読むものでした。団塊世代の成長とともに、高校生や大学生、社会人もマンガを読むようになったとき、青年マンガを革新させたマンガ家たちの物語を、群像劇として描いた大河ノンフィクション評伝です。

目次


序章 1945年8月15日
第一章 「漫画少年」とトキワ荘
第二章 永島慎二とつげ義春
第三章 劇画工房
第四章 水木しげると白土三平
第五章 週刊誌時代の幕開け――1959年
第六章 「サンデー」と「マガジン」――1960―62年
第七章 「ガロ」創刊――1963―65年
第八章 「COM」創刊――1966―67年
第九章 青年コミック誌戦国時代――1966―71年
終章 「未完の大作」

主に扱われる7人のマンガ家(生年順)


水木しげる 紙芝居、貸本時代のキャラクター「鬼太郎」「河童の三平」を描き続ける
手塚治虫 戦後ストーリーマンガを作り上げた天才
白土三平 『カムイ伝』で青年たちを熱狂させ「劇画」の代名詞的存在となった
さいとう・たかを 大阪の貸本業界からスターダムに上り詰めた
永島慎二 「青年マンガの教祖」と称されたマンガ界のキーマン
つげ義春 「ガロ」中心に文学的マンガ作品を生み出した
石森章太郎 少女マンガからスタートし、主要青年コミック誌4誌すべての創刊号に作品を描く

はじめに


戦後、それまでの「漫画」は、手塚治虫による「ストーリーマンガ」の登場により、まったく別のものになった。これを仮に「第一次マンガ革命」と呼ぶ。
従来の風刺画・滑稽画から始まった「漫画」と、手塚の「ストーリーマンガ」とは、「コマ」があること、「ふきだしの中にセリフが書かれている」という共通点はあるが、「物語」の有無において根本的に異なっていた。手塚自身、デビュー前の中学生時代に発表のあてもなく描いた『ロストワールド』の巻頭にこう宣言している。
〈これは漫画に非ず 小説にも非ず〉。
このとき、手塚治虫が「漫画」ではない別の名称を考案していれば、戦後のストーリーマンガは、その新たな名称となって定着したかもしれない。だが、そうはならなかった。せいぜい、「漫画」ではなく「マンガ」「まんが」と表記するくらいだった。
戦前からの「漫画」を引きずりながら、戦後の「マンガ」は新たな文藝ジャンルとして発展していった。手塚マンガは多くの亜流を生み、テレビアニメとも連動して、巨大産業へと成長した。
だが、やがて「手塚マンガは古い」とする勢力が現れた。彼らは自分たちの描くマンガを、手塚治虫とその影響下にあるマンガと区別するために「劇画」と呼んだ。
「劇画」が登場したのは貸本屋向けのマンガにおいである。一九五〇年代の日本は、まだ本や雑誌を買える人が限られていたので、貸本屋が隆盛だった。
貸本マンガは子どもだけでなく、中卒・高卒で働いている若い労働者も大衆小説と同じように読んでいた。しかし、すでに中学生ではない彼らは、マンガを好んではいたが、「子どもっぽい」と物足りなく感じていた。描き手のマンガ家たちも子ども相手のマンガに物足りなくなっていた――ここに需要サイドと供給サイドの思いが一致し、青年を読者に想定したマンガが生まれた。それは画がリアルで、描かれる題材も大人向きで、青年・大人が主人公であるものと、とりあえず定義づけられる。暴力シーン、エロチックなシーンも売り物だった。その青年向けマンガの描き手が、自分たちの描くものは「劇画」だと宣言したのが、一九五九年である。第二次マンガ革命史の始まりだ。
同じ年、小学館は「週刊少年サンデー」を、講談社は「週刊少年マガジン」を創刊し、両誌ともマンガを柱とした。講談社、集英社、少年画報社、秋田書店などの月刊の少年誌・少女誌もマンガが柱となっており、少年マンガ・少女マンガは隆盛を迎えていた。
その一方で一九六〇年代も半ばになると、貸本マンガ業界が衰退していく。日本全体が豊かになっていったので、貸本屋そのものが減っていくのだ。貸本屋向けの出版社は倒産していき、そこに描いていたマンガ家の多くが失業、転職した。ごくわずかの貸本マンガの描き手だけが、一般書店で販売される雑誌へ転身できた。その代表が白土三平や水木しげるだった。彼らを積極的に受け入れたのが、手塚治虫と絶縁した「週刊少年マガジン」で、少年誌でありながら劇画の牙城となっていく。
白土と水木の二人を柱にして、一九六四年に「ガロ」が創刊された。新人の発掘にも熱心で、実験的・前衛的なマンガがこの雑誌から生まれていく。
「ガロ」に刺激されて、一九六六年に手塚治虫が創刊したのが、「COM」だった。この雑誌からも多くの新人が巣立っていく。
一方、青年がマンガを読むと知った出版社は、「青年コミック」という新たな市場を開拓した。一九六六年に「コミックmagazine」(芳文社)が最初の青年マンガ誌として創刊され、六七年に「週刊漫画アクション」(双葉社)と「月刊ヤングコミック」(少年画報社)、六八年に「ビッグコミック」(小学館)、「プレイコミック」(秋田書店)と次々と青年コミック誌が創刊された。「劇画」はこの新市場にも流れ込んだ。
手塚治虫の革命が第一の革命ならば、「劇画」は第二の革命の始まりだった。やがて「青年マンガ」「青年コミック」が市民権を得て第二次マンガ革命は成就する。


この本は、一九六〇年代の第二次マンガ革命を、それを主導したマンガ家たちの群像劇として描く。第一部は「劇画」誕生、第二部で「ガロ」と「COM」、第三部で青年コミック誌の創刊という構成だ。


筆者はすでに、『手塚治虫とトキワ荘』で第一次マンガ革命を、『萩尾望都と竹宮惠子』で少女マンガ革命を描いてきた。この二冊はあえて、「手塚・トキワ荘中心史観」で書いたが、本書ではトキワ荘とは関係のないマンガたちの「もうひとつのマンガ史」と、トキワ荘中心のマンガ史とが並列して進み、やがて二つの流れが合流する。
まずは、彼らがまだマンガ家になる前、一九四五年の敗戦から始まる。

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