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「母の介護をしていたのにニートと名乗っていた」犬山紙子さんが振り返る"20代の介護生活"

プレジデントオンライン / 2021年5月21日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/byryo

犬山紙子さんは29歳で文筆業を始めたとき、「ニート」と名乗っていた。しかし、本当は20歳の頃から母親の介護をしており、ずっと思うように働けない状況だった。犬山さんは「当時は個人的な問題だと思い込んでいた。10代で介護をしている人もたくさんいる。子供の生活が親の介護で脅かされることがないように、公的支援を充実させるべきだ」という――。

■20歳の時にスタートした母親の介護

デビュー当時、私はニートだと名乗っていた。本当は母の介護を10年近くしていたし、その中でヘルパーさんがいる時間に、夢である漫画家、エッセイストを目指して作品も作っていた。今思えばとっても頑張っていたし無理もたくさんしていた。家事も介護もしていたが、仕事を辞めてお金を稼いでいないことに引け目を感じていたんだろう。

そして「みんなが働いたりしている間に、自分はこの先のキャリアのために何かできているんだろうか」という焦りがとてもあった。あと、「もっと大変な人はいるはず。きょうだい3人で手分けして介護している自分が介護をしていると名乗るのはダメなんじゃないだろうか」とも思っていた。いろんな気持ちが交錯して、私はニートを名乗っていたのだ。これはさまざまな事情を抱え、ニートである人に対して失礼でもあった。

なぜ、自分を認められなかったのか。まずは私の介護の経緯を書こうと思う。

私が20歳の時、母の動作が緩慢になったり、手が震えるようになったりした。大きな病院で検査をすると難病の「シャイ・ドレーガー症候群」だとわかった。この病気は早期の段階から日常生活に支障をきたすので、すぐに私たちの介護生活はスタートした。介護生活というと介護だけと聞こえるかもしれないけど、母がやっていた家事もやることになるのだ。

■「あの時の私に適切な知識があれば…」

介護初期、家に母を置いて、犬の散歩で15分間家を留守にしたことがある。帰宅すると、料理をしようとした母が、キッチンの棚に腕を挟んで動けずに苦しんでいた。「私がおらん間危ないことせんといてな」と声をかけて出ていったけれど、母は、自分の誇りであり生きがいでもあった料理がしたかったんだろう。まだできると思いたかったんだろう。料理が危ないことに入るだなんて思いたくなかったんだろう。

駆け寄って抱きとめた時に、母の悔しい気持ちが本当に伝わってきた。でもまだ若い私は母に適切な言葉をかけられず、それどころか「もう何やってんの!」と怒ってしまった気がする。母は何も言い返さなかった。あの時の私に適切な知識があればと今でも思う。

車椅子生活になった母は80キロくらいまで太り、介助も大変になった。一人で抱えて、立ち上がらせたり、座らせたり、寝かせたり。20歳なのにぎっくり腰を何度かやった。排尿、排便にも障害があるので、夜中に母がベルを鳴らすと飛び起きて、トイレで30分格闘。これを何度も繰り返す。夜中に一度も起きずぐっすり眠ることが夢のようなことだと、この頃痛感するようになった。

■地元で就職したけれど、1年半が限界だった

また、実家を出ることは難しくなり東京の出版社で働く夢も諦めた。宮城の出版社に就職をして1年半働いたけれど、それができたのもおばあちゃんがその間来てくれたから。おばあちゃんの体力的にも1年半が限界で、そこで私は退職したけれど、おばあちゃんがきてくれなかったら私は就職自体を諦めていたはずだ。

退職後は一人で母を介護する日々。ケアマネさんもいてヘルパーさんも来てくれていたけれど、短い時間だった。姉が月に1週間ほど東京から実家に帰って私を休ませてくれたけれど、それだと姉も東京で働き続けるのはかなり厳しかったはずだ。

問題を抱えた人の頭のシルエット
写真=iStock.com/tadamichi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/tadamichi

■介護は「愛」だけで片付くものではない

当時、介護から逃げるような気持ちで遠距離恋愛を始めていた私は、彼にだけ自分の中の“子ども”を全て解放して甘えていた。これはかわいく聞こえるかもしれないが相手に相当な負担をかけることだ。母が寝て、夜中に起こされるまでは自分の時間。そうなると彼に電話した。楽しい会話のことも多かったけれど、夜中怒り出したら止まらないこともあった。

心底申し訳なく思っており、彼にしたことを言い訳するつもりもない。が、そこまで私は追い詰められていた。夢があって、仕事もしたくて、遊びたくて、何か自分が成長できていると実感することが欲しかった。でも、それができないどころか、ぐっすり寝ることすらできなくて追い詰められる。

母は大好きだし、母の力になれていることで沸く嬉しい気持ちもあったけど、「逃げ出したい」という気持ちが並行してあった。介護は「愛」だけで片付くものではないと当時痛感した。誰かの助けと、助けてもらっている時に沸く罪悪感からの解放と、自分の時間が必要だった。

姉に泣きついて、追い詰められている気持ちを全部伝えたら、すぐに実家に戻る手はずを整え、母の介護を共にすることとなった。きっとたくさんのことを諦めたはずだ。そして、姉はすぐ現状について当時のケアマネさんにかけあっていた。

私は「え? ケアマネさんがやれることは全部やってくれているのでは?」と思っていたが、姉が掛け合った後、ヘルパーさんが来てくれる時間が伸びたのだ。母の病状がきちんと伝わってなかったそうだ。やはり、一人で追い詰められていたら、そういうことにも気がつかないんだと痛感した。

■兄弟3人で介護、「ニート」と自虐

それから1年後、弟も学校を卒業し実家に戻って来た。姉、私、弟で家事と介護を分担。そしてヘルパーさん。私たち兄弟はみんな外で仕事をしていないことを「ニートやねん」と自虐めいて話していた。

そこから2年ほどして、私が隣にいる時に母は脳出血を起こした。さっきまでDSで遊んでいたのに、急に大きないびきをかいて眠り出し、どれだけ声をかけても全く起きない。すぐに救急車に連絡をして病院へ運んでもらったが、母はその日から寝たきりになり、しゃべることもできなくなり、気管切開をされ、そして胃ろうの処置もした。

急に話すことも食べることも起き上がることもできなくなった母。どれだけ心細く、どれだけ辛く、どれだけ葛藤があるのか。私は一緒にいた自分の行動に落ち度はなかったか、責める日々がスタートした。

医師に話を聞きにゆき、私たち3人はその場で「病院ではなく自宅介護をする」と選択した。これまでもそうしてきたし、手術後、病院で寝ているもの言えぬ母の頭に円形脱毛症ができていたのを見つけたこと、母を残して病室をさる時の母の悲しそうな目、私たちのあの気持ち。そうやって自分たちで選んだ。20代でなかなか割り切れないだろう。たんの吸引も、体位交換も、胃ろうに食事を注入するのも、導尿も、摘便も、自分たちでできるよう看護師さんに習った。

その後、ヘルパーさんが来てくれる時間が更に大幅に増え、本当にお世話になりながら今に至る。

待合室
写真=iStock.com/gyro
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gyro

■すべてを話せる理解者がほしかった

これらの全てのタイミングで「私の気持ちを話して良い理解者がいたなら」と今になって思う。当時の私は苦しみを両手に途方にくれ、好きな人にそれをぶつけるという幼稚な方法でしか発露できなかった。姉も弟も話はできるが共にケアラーであり、混乱していた。私が「しんどい」と言える相手。そして適切にどうすれば良いか助言をくれる人。

ケアマネさんには母のことは相談できるけど、ケアラーである私の悩みは相談できない。母の方が辛いのに、五体満足の私が辛いとか逃げたいとか言っちゃダメだと思っていた。母のことが好きなのは本当で、介護で得られる喜びがあるのも本当だけど、それと並行して「辛い」もある。でもそれを言うと「心のない子ども」と思われるのが怖かった。「しんどくない?」「将来はどうしたい?」「こんな選択肢もあるよ」そう、相談できる相手。

そもそもケアの前に「お母さんが難病になってとても悲しい」という気持ちですら折り合いがついていなかった。兄弟やパートナーがいない人だったら、さらに追い詰められたのではないだろうか。更に言えば、介護する相手にこれまで傷つけられてきた人だったらどうだろう。

■「ヤングケアラー」が追い詰められるのは容易に想像できる

家族にケアを要する人がいる場合に、大人が担うようなケア責任を引き受け、家事や家族の世話、介護、感情面のサポートなどを行なっている18歳未満の子どもは「ヤングケアラー」と呼ばれる。国が4月に発表した調査結果では「公立中学2年生の5.7%、公立の全日制高校2年生の4.1%」が世話をしている家族がいると回答したそうだ(2021年4月12日「ヤングケアラーの実態に関する調査研究」取りまとめ報告)。

20代だった私はヤングケアラーには入らない(ただ、30代までは支援が必要とされる若者ケアラーと呼ばれる)。しかし、20代の私でもこれだけ追い詰められたのに、ヤングケアラーと呼ばれる子どもたちがどれくらい追い詰められているのか。介護と言っても、その内容はさまざまで、私の体験から憶測で全てを語るなんて絶対にできない。でも、きっと追い詰められてしまうはずだ。

きちんとした支援がなければ子どもらしい生活は脅かされる。進学を諦める子もいるはずだ。夢を諦める子もいるはずだ。それ以前に遊ぶことを諦める子がたくさんいる。そしてそもそも子どもはケアを受ける側の存在であり、支援は絶対必要だと感じる。

空を見上げる女の子
写真=iStock.com/hanapon1002
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/hanapon1002

■SOSを出す前に支援する仕組みが必要だ

子どもたちは自分からSOSをほぼ出さない。虐待児もそうだが、ケアラーもそうだ。だから、子どもがSOSを出したら動くという形ではなく、学校、病院、行政、専門団体それぞれが縦割りではなく連携してヤングケアラーを見つけて支援する、消極的ではない、積極的な支援をしてほしい。

また、支援方法の確立も早急に必要だと感じる。埼玉県は昨年3月、全国で初めての「ケアラー支援条例」を施行した。こういった動きを全国に広げるべきだろう。

母は今も生きている。最初にシャイ・ドレーガー症候群の予後を知らされた時、頭を殴られたような気持ちになったが、言われていた年数より10年以上長く生きているのだ。母の笑顔で全て報われる気持ちになる日もたくさんあったし、母が生きている、そのことが嬉しい。シンプルに、大好きな人が生きてくれているのは、私にとって幸福で嬉しいことだ。

そして、今もヘルパーさんにたくさん力を借りている。今、私が追い詰められていないのは、大人になり知識がついたこと、そしてヘルパーさんのおかげだ。今こうやって私が夢であった書き仕事をしたり、子どもを育てたりできるのもヘルパーさんのおかげなのだ。介護職に関わる人の待遇が良くなることを切に願っているし、声を上げ続けようと思っている。そのことについてはいつかしっかり書きたい。

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犬山 紙子(いぬやま・かみこ)
イラストエッセイスト
仙台のファッションカルチャー誌の編集者を経て、家庭の事情で退職。マガジンハウスからブログ本を出版しデビュー。現在はTV、ラジオ、雑誌、Webなどで粛々と活動中。2014年に結婚、2017年に第一子となる長女を出産してから、児童虐待問題に声を上げるタレントチーム「こどものいのちはこどものもの」の立ち上げ、社会的養護を必要とするこどもたちにクラウドファンディングで支援を届けるプログラム「こどもギフト」メンバーとしても活動中。

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(イラストエッセイスト 犬山 紙子)

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