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灘→東大→ハーバード大→26歳最年少市長…指名されても前に出られない内気な子を変身させた母の言葉

プレジデントオンライン / 2023年10月15日 11時15分

出典=『プレジデントFamily2023秋号』 - 撮影=森本真哉

灘→東大→ハーバード大という華麗な学歴を持ち、今春、最年少市長(26歳)に当選した髙島崚輔さんが注目されている。どんな子供時代を過ごしたのか。どのように工夫して勉強してきたのか。そして、どんな市長になりたいのか。中1のときに「美しいノート」の取材をした『プレジデントFamily』編集部がインタビューした――。

※本稿は、『プレジデントFamily2023年秋号』の一部を再編集したものです。

■灘→東大→ハーバード大→26歳最年少市長の素顔

――2023年4月に行われた兵庫県の芦屋市長選。26歳、最年少で市長になった髙島さんは、どのような経緯で選挙出馬を決意したのか。

市長選の出馬にあたって、相談したほとんどの人から反対されたんです。でも周囲から反対されることこそ、自分だからこそできることだし、チャレンジしたいと考えました。また、私が挑戦することによって、他の人に大きな迷惑がかかるようでしたら困りますが、市長選に出るのは、落選しても自分が困るだけの話。だったらやってみようと思いました。起業家に近いマインドセットかもしれません。

――髙島さんは2022年の5月にアメリカ・ハーバード大学を卒業したばかりで、12月に出馬表明をした際は「無謀」という声が聞かれた。しかし2期目を目指す当時の現職市長などを相手に大差で勝利した。

今回の挑戦は、起業家の心持ちに近いと言いました。ただ、起業家自体には向き不向きがあると思っていて、僕は向いていないんじゃないかな。中高や大学の友人など周りにはビジネスセンスがある「成功する起業家」タイプがいっぱいいるのですが、彼らとは違うなと感じます。ビジネスへのチャレンジと行政へのチャレンジとを比べると、後者のほうが自分に合った形で社会を変えられる可能性があるんじゃないかと思ったんです。中学と高校で生徒会長を務め、生徒のやりたいことを実現するため学校と調整するような役割をしたことも関係しているかもしれません。

ハーバード大学を卒業後、30歳、40歳くらいまで働いてある程度お金を稼いでから、あらためてやりたいことに挑戦すればよいと言う人もいました。

でも、手段のための人生を歩みたくないという気持ちがあったんです。将来やりたいことをやるために、今から5年間、10年間を過ごしましょうという生き方は、あまり好きではないんです。

かっこいい言い方をしてしまうと、社会にいろいろな課題があるのに、その解決を10年後にやりましょうというのはおかしいと思うんです。今、目の前に解決するチャンスがあるのなら、待つ必要はない。今、課題に挑戦したいという思いでした。

【図表1】髙島さんの「自走」年表
出典=『プレジデントFamily2023秋号』

市長選に挑戦しようと思ったのは、前箕面市長の倉田哲郎さんの影響が大きいですね。

私が住んでいた箕面市の市長が、34歳の倉田新市長に代わって街が活気づくのを肌で感じたのがきっかけでした。私が小学生のときです。子供が増えて、商店街もどんどんにぎやかになっていきました。その後、鉄道の延伸も決まるなど、街は市長の交代でこんなに変わるのかと思いました。

■母の言葉「チャンスの神様には前髪しかない」で覚醒

――倉田哲郎さんは2008年、箕面市の市長選に無所属で立候補し、初当選した。当時34歳で、全国最年少の市長だった。

高校生のときに、倉田市長を表敬訪問したことがあるんです。そのとき「どうして市政の道を選んだんですか?」「仕事のやりがいは?」と尋ねたところ、市民生活に密着した仕事の魅力を語ってくださいました。

世の中を変えようと思ったとき、市長は市民にとって一番身近な首長だからこそ、政策を動かしやすいと思うんです。

ハーバード大学では、ボストンに隣接するニュートン市の前市長セッティ・ウォーレンさんが主宰しているゼミも受講しました。学部生が10人、行政大学院生が10人の計20人の小さなゼミで、前ボストン市長のほか、ゲストとして現役のマサチューセッツ州知事などを招いて議論をしました。

ボランティアの集め方やファンドレイジング(民間非営利団体が活動資金を集める行為)を含めた選挙の準備から、市長になってからどのように法律(日本では条例)を作っていくかまで、実践的な授業で毎回テーマを決めて進められました。アメリカと日本では選挙や政治のシステムが違うのですが、市民との対話を重視しながら人を巻き込んでいく方法などは役に立ちました。

ゼミを受講していたのはハーバード大学での最後の学期の昨年春。ゼミの同期の中で、私が最初の首長になったわけですね。

――周りの人を巻き込んで選挙戦に勝利した髙島さん。しかし、幼稚園のころは内気で引っ込み思案。人前に出ていくのが得意ではなかったという。ある日、そんな髙島さんを変える出来事が起こった。

4歳のときに家族でマジックショーを見に行ったんです。人体切断のマジックの際にマジシャンが「誰か手伝ってくれる人はいませんか?」と声をかけたんですね。会場にいた子供たちは、皆、手を挙げました。それで私もつい手を挙げてしまいました。そうしたらマジシャンは私を指名したんです。私は恥ずかしいし怖いしで、指名されたのにもかかわらず、舞台に上がることができませんでした。

『プレジデントFamily2023秋号』(プレジデント社)
『プレジデントFamily2023秋号』(プレジデント社)

その後、母から「チャンスの神様には前髪しかない」という言葉を教えてもらいました。母方の祖父が好きだった言葉だそうで、チャンスだと思ったら、すぐにつかまえないと駄目。後でつかもうとしても、チャンスの神様の後頭部には髪がないからつかめないというのです。

それを機に、チャンスがきたらちゅうちょせずにまずはつかみにいく、という気持ちが芽生えたんだと思います。

もともと負けず嫌いな性格でした。小さいときから大人を相手に、どちらがパズルを早く完成できるか競争していたそうです。負けたくない、挑戦したい、頑張りたいという気持ちは強かったと思います。

■「空はなんで青いの?」という質問に親はどう答えたか

小学1年生のときには、初めて仲間と何かを成し遂げることの楽しさを知りました。学校の裏庭のような場所に秘密基地を作って、皆で遊んでいたんです。当時、テレビで「特捜戦隊デカレンジャー」が流行っていたので、僕たちは「チビレンジャー」を作ろうと。それで私が隊員募集のチラシを作って、帰りの会で配らせてもらいました。それでたくさんの仲間が集まったんです。

募集の紙は、Wordで作りました。ちょうどWord2003が出た頃で、父にパソコンの使い方を聞いたんじゃないですかね。わが家では毎年、お正月にその年の目標を家族会議で発表していました。父が目標をWordで打って印刷して、家に張っていたのを見て、チビレンジャー募集のチラシを作ろうと思ったんでしょう。パソコンを使ってチラシを作ることを、親も認めて手伝ってくれたわけです。これに限らず、両親は私がやりたいことを応援してくれました。

私は本が好きだったので、本の読み聞かせについても感謝しています。小さい頃は、寝る前に母に絵本を50冊くらい読んでもらっていたと聞きました。母が「読み出したら目がさえてきてしまい、午前3時くらいまで寝かせてもらえなかった」とぼやいていたことを覚えています。

髙島崚輔さん
撮影=森本真哉
出典=『プレジデントFamily2023秋号』 - 撮影=森本真哉

ほかにもたとえば、家族旅行に行くときに、どこに行きたいかを私と2人の弟とで決めていたこともありましたね。子供たちが本を読んで「ここに行きたい」と言えば、そこに行ってどう旅行を楽しもうかと一緒になって考えてくれる。

私たち兄弟がやりたいと言い出したことについて、賛成や反対を言うのではなく、私たちの思いを尊重したうえで、質問をしてくれたのが印象的です。「なんでそれをやりたいの?「それってどういうふうにやっていくの?」「困ったことが起きたらどうする?」と。子供を一人前の人間として認め、対等に向き合ってくれました。

たとえば散歩しているときに「空はなんで青いの?」という素朴な疑問が浮かんだなら、両親は「どうしてだろうね」と一緒に考えてくれました。おかげで、自分なりに答えを導き出すプロセスの面白さを知りました。

今やネットで検索すればなんでも答えがわかる時代ですが、すぐに調べずに、まずは自分の頭で考える習慣がついたことに感謝しています。

挑戦を応援し、褒めて伸ばしてくれたことは、その後の私の成長にとって大きかったと思います。

自発的に行動することはとても重要ですが、その前段階として、自分のやりたいことを見つけて、目標を決めるということが大切だと思うんです。するかしないかの前に、進む方向を自分で決めるということが。

私の親は、この点を大事にしてくれていたんじゃないかなと思います。

■「暗記が嫌い」だが、自分で工夫して覚えた

――小学校卒業後、灘中・灘高に進んだ髙島さん。両親は当初、中学受験をすることは考えておらず、受験は本人が強く希望して実現したという。

4年生の冬に、同級生が中学受験をすると聞いたんです。そういう選択肢があるということを初めて知りました。調べてみたら、灘は図書館が充実していて蔵書が多いことなどがわかり、進学したなら新しいことをたくさん学べて楽しそうだと思ったんです。そこで中学受験をしたいと自分で決めました。

両親に相談すると、私はぜんそくを患っていたので「体は大丈夫か」とか「小学校が一番大事だと思うけれど、受験によって学校がおろそかにならないか」などと質問されました。

それに対して、「塾から帰ったらすぐお風呂に入って寝る」「学校の宿題は塾への行き帰りの電車でする」など、自分なりに考えたルールを説明して、納得してもらいました。

私が自主的に行動するようになった理由を考えると、「楽しくなる方法を見つけるのが得意」ということも関係していると思います。見方を変えたりやり方を工夫したりして、「やっていて楽しい」状態にするのが得意なのかもしれません。

たとえば勉強。私は、暗記科目がすごく嫌だったんですよ。覚えるということが好きになれない。でも好きになろうと考え、二つの方法でやっていました。

プレジデントFamily2010年5月号「灘中の学年トップ『行列のできるノート』は芸術品」
プレジデントFamily2010年5月号「灘中の学年トップ『行列のできるノート』は芸術品」(出典=『プレジデントFamily2023秋号』)

まずは暗記用のノートを作ること。私はノートをきれいに整理して書くのが好きだったんです。そこで暗記とノート作りをひもづければ面白くなるかなと思って始めてみました。

もう一つは、先生になりきって授業をしてみること。一人でぶつぶつつぶやきながら授業をして、授業の要点を覚えるようにしました。友達が「わからない」と相談してきたら、教えるというのが楽しかったし、自分の理解が深まると思っていたんですね。それとひもづけたわけです。

勉強だけに限りません。小さなころから、遊びもより楽しくなるような工夫をしていました。3歳違い、9歳違いの弟たちと、わが家の前の道で野球やサッカーをしたときのことを思い出します。

その道の両側にはすぐ家があります。当然、野球を本気でやると、ボールがよその家に飛んでいってしまうじゃないですか。それはできない。どういう形だったら、他の人に迷惑をかけずに自分たちのやりたい遊びができるか考えました。

普通なら、打球が左右に飛ぶとファウル。それを全部アウトにしたんですよ。まっすぐ打つしかないように、ルールを変えました。ある一定のところを越えたらホームランだけど、越えすぎたら……とか。実際にやってみて、どんどん新しいルールを加えて、調整していきました。

また9歳下の弟でも対等に戦えるようにするにはどうしたらいいか。兄は左打ちしかしないとかアンダースローしか駄目といった、ちょうどよいハンディを考えました。弟にハンディは与えるけど、こちらが手を抜くことはしない。手を抜いて野球をやっても面白くないから、と。

どうやれば一番楽しめるか。それを考えるのが、私の得意なところだと思います。

■なぜ中学生と一緒に給食を食べたのか

――髙島さんは高校卒業後に東京大学に入学。その半年後の秋にハーバード大学に入り直した。高校時代は、日米のトップクラスの大学に入るべく、まったく異なる方式の入試に向けて努力を重ねた。

本当にシンプルな話で、やりたかったから、ダブル受験したわけです。挑戦してみたいと思って。灘の先輩で、ハーバードに進学した人がいたんですよ。「髙島はアメリカの大学に進んだほうがよい」と声をかけてもらったんです。私は日本で生まれ育ち、海外で暮らしたことはありません。最初は「絶対無理ですよ」と言ったんですが「見学だけでもしてみたら」と誘われて、高校2年生のときにハーバードを見に行きました。

すると、学生たちの目の輝きが違うというか。自分で道を切り開いていくという意欲や自信が感じ取れたんです。この環境の中で勉強するのはすごく面白そうだなと、魅力的に感じ、目指し始めました。

プレジデントFamily2018年春号「海外トップ大学に入った子の出願書類拝見!」
プレジデントFamily2018年春号「海外トップ大学に入った子の出願書類拝見!」(出典=『プレジデントFamily2023秋号』)

アメリカの大学が秋から始まることはもちろんわかっていたので、3月に高校を卒業してからの半年間をどう過ごそうかと思ったんですね。東大に進学した先輩に相談したら、面白そうなゼミがあり、受講してみたいなと。素直に面白そうだなと思ったから挑戦したという感じですね。

ダブル受験をすることであぶ蜂取らずになるかも、という心配をする人もいるでしょう。でも私は原則楽観的なんですよ。

自分が挑戦したいことがあり、それが成功するか失敗するかわからないことってあるじゃないですか。

もちろん失敗することも考えます。頑張ってもどうにもならない部分というのは絶対あって、そこはある程度、悲観的にどうやったら失敗を避けられるかを考えます。でも、これだったらいけるかなと思ったときには、楽観的にやってみる。悲観力と楽観力のバランスというんでしょうか。いけるかなということを前向きに考えるタイプかもしれないですね。

ただ、私の場合は正直に言うと、高校2年生の時点で東大受験に勝算があったから、できたんだと思います。東大の合格からほど遠いという状況だったら、踏み込めていなかったかもしれません。

そういう意味では、無謀な挑戦をしているように見えて、本当に無謀な挑戦はしていない。悲観的にある程度考えたうえで、ここは大丈夫かな、ここは多分何とかなるんじゃないかなといった線はちゃんと引いているつもりです。

――当選後、髙島さんは市立中学を訪れて、一緒に給食を食べながら生徒たちと談笑している。

今後のまちづくりや人口減の日本社会を考えたとき、子供の教育が圧倒的に大事だと思っています。

私自身は、恵まれた教育を受けてきたと思います。多くの「本物」に出会わせてもらえた。中高時代では、教科書に書いてある、通り一遍のことを言うのではなく、本質から説明をしてくれる数学の先生に教わりました。卒業生をはじめ、さまざまな分野で活躍する人たちと会い、疑問を直接ぶつける機会もいただけた。

大学でもそういう人との出会いがたくさんありました。ある分野について知りたいと思ったときに、その分野を本当に引っ張っているトップクラスの人に直接話が聞ける。これはすごく貴重な経験ですよね。

いわゆる偏差値的な価値観とは別で、「本物」との出会いにたくさん恵まれたことが、すごくありがたかったと思っています。市長になった今、その経験をどのように未来世代に還元していくかを考えています。

これからを担う子供たちが、そのような経験をできるようにするにはどうしたらいいだろうか。私自身がその一助になればいいと思いますし、子供たちと「本物」とをつなぐことができたら、と。

市長としてそれを実現させるため、職員・市民・企業などを巻き込んで、できるだけ主体性をもって自走できるチームをつくり、課題に挑戦していきたいと思っています。

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髙島 崚輔(たかしま・りょうすけ)
兵庫県芦屋市長
兵庫県芦屋市長。1997年大阪府生まれ。灘中学・高校を経て、東京大学とハーバード大学にダブル合格。東大に半年通い、その後ハーバード大学に進学。大学では環境工学を専攻し、再生可能エネルギーについて学ぶほか、日本の中高生の海外大学進学支援を行うNPO法人「留学フェローシップ」の理事長を務めた。2022年にハーバード大学卒業後、大学時代にインターンをした芦屋市の市長選に立候補し、23年4月に当選。歴代市長の中で最年少での当選者となった。趣味は中高大学時代に部活動を経験したラグビー。3人兄弟の長男。

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(兵庫県芦屋市長 髙島 崚輔 構成=菊地武顕 撮影=森本真哉)

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