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「元気という完璧な箱に収まり苦しくなるのなら、決して元気じゃなくてもいい」長井短の初小説集はイタ気持ちいい/『私は元気がありません』書評

日刊SPA! / 2024年2月20日 8時50分

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長井 短・著『私は元気がありません』(朝日新聞出版)

 世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。ここが人と本との出会いの場になりますように。
 起承転結がありドラマチックで感動的な小説。そんな作品なら多くの支持を集めるだろうし、書店員としても薦めやすい。しかし読者でもある自分は、そればかりでは世の中つまらない、と日々感じている天邪鬼な人間だ。読んでいて困惑してしまう、どういう内容か判断がつきかねる作品も大切にしたい。

 さて、俳優やモデルとして活躍する長井短は、読者をどこへ連れて行くかわからない、予定調和を崩す魅力的な文章を書く人だと思う。これまでエッセイなどでは独特な表現を楽しんでいたが、この初小説集『私は元気がありません』も期待を裏切らない作品で、読んでいてとても嬉しくなった。

 やはり表題作がとても素晴らしい。主人公の32歳の雪は、同い年の会社員の吾郎と同棲しているイラストレーター。日々生活や仕事をこなすなか、吾郎が出張する時に、主に学生時代の同級生・律子を自宅へ招くのを習慣としている。彼女たちは長時間深夜にかけて必ず酒盛りをするが、「台本を繰り返す」ように性懲りもなく同じ昔話を延々と繰り返す。あの時一緒にああしたこうしたという、他人には取るに足らない出来事でも、当人たちは魔法がかかったように笑い合い、涙ぐむ。そしてだんだん現実と過去の境目がなくなる様子に、思わずこちらもそういうのはよくあることだよね、と共感してしまう。

 酒と会話の力を借り理性のストッパーを外して、ますますおかしくなる二人。正気から外れた駄目な部分を愛しながら、それ以上に本気で昔の自分から一生変わりたくないと思っているのが、切なくも面白い。吾郎はそんな雪の行動を「空元気」だと冷静に指摘して、大人なのだからと成長を促す。でも雪は言い返す。

「そもそも変化が無理だから。その時点で暴力なの。だから暴力に暴力で抵抗してる」

 もちろんずっと同じではいられない。だが雪の本当の意味での恐れは、何度でも嚙みしめるたびに溢れ出す過去の想い出を、置き去りにしてしまうことではないか。それは律子や吾郎の密な会話や、ドライブなど日常を離れたさまざまな場面で、今の幸福よりも遠い過去の眩しさを無意識に選んでしまうのにも表れている。さらに悪酔いのあとの嘔吐、睡眠障害や金縛りに遭い、空想と現実がごちゃ混ぜになった夢を見る。やがて苦楽を共にした亡き友人の存在がぼんやりと浮かび、再び過ぎ去った日々へと誘われる。それに気づいたあと、無敵であったはずの若いときの無鉄砲な全能感と体力が、加齢でもはや消えかけているのを突きつけられる。

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