チャリティ王の世界地図 - ふるまい よしこ 中国 風見鶏便り

ニューズウィーク日本版 / 2014年1月13日 21時31分

「香港映画の父」、ランラン・ショウが亡くなった。数えで107歳。大往生である。

 彼が生まれた1907年は辛亥革命(1911年)前夜の清朝末。紡績業を営む裕福な家庭に生まれ、上海でアメリカ人が開いていた学校で学んだ後、10代の頃から長兄が作った映画会社で働き始めた。その後、映画市場開拓のために三兄とともにシンガポールに移住。映画館を買収するビジネスに乗り出し、さらに映画製作を始める。長兄の会社は戦時中に香港へ移転。1958年に彼がそれを引き継いで香港で「ショウ・ブラザーズ」を設立した。

 ショウ・ブラザーズはカンフー、任侠、お色気コメディ、そしてアクション映画と徹底的に庶民ウケする映画を作り続けた。そしてそれらは香港だけではなく、台湾や東南アジアの華人・華僑社会でも人気を博し、東南アジアの共通娯楽になった。1959年からは「ミス香港コンテスト」を主催して勝ち抜いた歴代ミスたちをそのまま映画に投入、徹底的な大衆路線を貫く伝統的香港映画の基礎を作った。

 だが、1970年代中頃からショウ・ブラザーズが育ててきた映画人たちが独立、それぞれに映画製作を始めるようになる。ちょうどその頃のショウ・ブラザーズ最大の失敗として語り継がれているのが、「1本1万米ドル」の出演料を要求したといわれるブルース・リーとの契約を拒絶したことだった。そのブルース・リーを拾ったのがまたショウ・ブラザーズ出身のプロデューサーだった映画会社「ゴールデン・ハーベスト」のレイモンド・チョウ。その後ゴールデン・ハーベストはブルース・リー、さらにはジャッキー・チェンの活躍で大きく業績を伸ばしていく。

 さらに80年代に入ると、若手映画脚本家を中心に創設された映画会社「シネマ・シティ」がお色気、コメディ路線市場を奪った。その頃からショウ・ブラザーズはゆっくりとショウが1965年に設立したテレビ局「無線電視」(TVB)にその総力を移し始めたようだ。そして1987年、ショウ・ブラザーズは正式に映画製作を止め、その製作スタジオをすべてTVBのテレビスタジオへと転換した。

 わたしが香港で暮らし始めたのがちょうどこの年で、ランラン・ショウは当時すでに齢80を超えるおじいちゃんだった。香港に二つしかなかった地上波テレビ局(と言っても、当時は地上波しかなかった)のうち、TVBはライバルの「亜洲電視」(ATV)を大きく上回る人気を誇っていた。というのも、TVBの傘下に俳優育成学校を持ち、その卒業生たちを契約でがっちりと縛り、徹底的に自局でプロモートしたからだ。その後ゴールデン・ハーベストやシネマ・シティの映画で活躍するようになる俳優や脚本家、プロデューサーなどもやはり多くがショウ・ブラザーズやTVBの出身者で、日本でも香港映画ファンによく知られているアンディ・ラウやチャウ・シンチー、トニー・レオン、チョウ・ユンファといった人気大物俳優も同学校の卒業生である。

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