特集2017年12月24日更新

真央・藍・伊達…2017年に引退したスポーツ選手

どんな名選手、大選手でも避けて通ることのできない「引退」。今年は浅田真央、宮里藍、伊達公子と、世界の舞台で輝きを放った日本人女性選手の引退が続いた印象が強いのではないでしょうか。そんな、今年現役を引退した選手の一部を紹介します。

目次

大物女性選手の引退が続いた2017年

浅田真央

4月10日、ブログで現役引退を表明

浅田選手は10日、自身のブログに「突然ですが、私、浅田真央は、フィギュアスケート選手として終える決断を致しました。自分を支えてきた目標が消え、選手として続ける自分の気力もなくなりました」などとつづり、現役引退を発表した。

バンクーバー五輪で銀メダル ソチ五輪では涙

2004年~05年のシーズンで出場したジュニアグランプリに3戦全勝し、圧倒的な強さでジュニアデビュー。翌シーズンにはシニアに進出。いきなりグランプリファイナルで優勝を果たし、06年のトリノオリンピック出場の期待が日本中に高まりました。ところがISUの定めた“五輪前年の6月30日までに15歳”という年齢制限にわずか87日足りず出場できなかった。次のバンクーバー五輪(10)ではライバル、キム・ヨナに次ぐ銀。記憶に新しいのが14年のソチ五輪ですね。ショートでまさかの16位発進したものの、フリーで自己最高の142.71点をたたき出し、涙のフィニッシュ。

「ありがとう。本当にお疲れ様」一時は確執もあった姉・舞もコメント

過去には姉妹間で確執もあったといいます。

かつて『しくじり先生 俺みたいになるな!!』(テレビ朝日系)に出演した際、真央があまりに競技者として優れすぎていたせいで比較され続け、結果的にグレてしまった過去を告白した舞。
一時は姉妹間で確執もあったようだが、たしかに世界的な選手と比較され続ければ、そうなってしまうのも理解できる。

韓国も中国も大騒ぎ

浅田選手引退のニュースは韓国でも大きな注目を集めている。メディアは「“不運のアイコン”浅田真央の悲しい別れ」「“電撃引退”の浅田、結局かなえられなかった“五輪の金”」「浅田真央、電撃引退宣言…キム・ヨナは超えられなかった」などの見出しを付け、浅田選手のフィギュアスケート人生を振り返る記事を相次いで掲載している。
引退表明は中国の各メディアも速報で伝えるなど注目度が高く、中国中央テレビ(CCTV)は、「2010年のバンクーバー五輪でトリプルアクセルを3度成功させ、高難度技の第一人者となった」と評価し、ポータルサイトの新浪は「浅田真央はアジアで初めて世界選手権で3度優勝した選手。MAO(中国での愛称)!素晴らしい思い出をありがとう!」と同社の微博(中国版ツイッター)公式アカウントに書き込んだ。

現在はプロスケーターとして活動 フランス人とのロマンスも

「引退後はプロスケーターとしてアイスショーに出演している浅田ですが、最近は姉の浅田舞の振付で、振付師デビューも飾りました。10月にはフランス人イケメンモデル、ロマ・トニオロとのルーブル美術館デートが報じられるなど、ロマンスも」

宮里藍

「モチベーションの維持が難しくなった」

5月29日、都内ホテルでの記者会見では、引退の理由として「モチベーションの維持が難しくなった」と語った。女子ゴルフの元世界ランキング1位で、米ツアー通算9勝、国内15勝をの実績を持つ宮里藍選手のこの引退理由は非常に重い。

2010年にはツアー5勝 世界ランキング1位を11週間保持

 アマチュア時代から実績を残した宮里は、2003年にプロへ転向。日本ツアーで活躍したのち、2006年よりLPGAツアーに進出する。だが、参戦早々にショットが左右にぶれる“ドライバーイップス”に直面。それでも諦めることなく努力を続け、2009年のエビアンマスターズでLPGAツアー初優勝を飾ると、2010年にはツアー5勝し、世界ランキングで11週間にわたり1位を保持する。2011年に2度目のエビアンマスターズ優勝、2012年にツアー2勝を挙げるがそれ以降は低迷を続け、今年5月ついに引退を表明した。

サントリーはこれからも応援

元女子プロゴルファーの宮里藍さんが12月11日、インスタグラムを更新。
所属するサントリーに挨拶に訪れた写真とともに、これまでずっとサポートしてきてくれた企業への感謝の言葉を述べた。
これに対してサントリー公式アカウントは、「昨日は、お越しいただきありがとうございました。(中略)これからも、宮里藍さん、ずっと応援していきます」とエールを送った。

結婚を見据えた引退か

「“モチベーションを維持するのが難しくなってきた”という引退の理由は、本音でしょう。もう一つ、10年来の交際といわれるマネージャーとの結婚も視野に入っているはずです。引退会見では“結婚はまだないです。すみません”と言っていた宮里ですが、2人の仲はゴルフ関係者なら誰でも知ってますからね」(スポーツ紙記者)

伊達公子

「自分のボールが生きてない」

「今回膝がダメになって、手術の後だいぶ痛みが落ち着いてきたとはいえ」「自分のボールが生きてないなっていうのを感覚として感じ始めて」と、その時の心境を振り返る伊達。
「(以前のように試合の)主導権を握れなくなってる」と感じると同時に、「その段階でもう(プロのトップ選手には)ついていけないのかな」という思いも浮かんできて、自分の気持ちが現役引退へ傾いていったという。

アジア出身女子プレーヤーで初のシングルス世界ランキングトップ10

伊達公子は、1989年にプロ転向し、現役第1期にはグランドスラム(4大大会)のうち、全豪、全仏、ウィンブルドンでベスト4、アジア出身の女子プレーヤーとして初めてシングルス世界ランキングでトップ10入りを果たすなど輝かしい成績を残した。名実ともに世界のトッププレーヤーに名を連ねたが、1996年、キャリア絶頂期に突然の現役引退。2008年、37歳で現役復帰を発表すると、2009年にはソウルにてWTAツアー優勝を果たした。現役第2期はけがに悩まされ続けたものの、ウィンブルドンでの最年長3回戦進出記録等、数々の最年長記録を塗り替えた。

「伊達公子仕様」記念ラケットが限定発売

引退を記念し、12月下旬よりテニスラケットの最終モデル「ASTREL 105」の特注スペックが、300本限定で販売されます。もちろん通常では手に入らないラケットですし、特典として「ヒストリーフォトブック」も付くため、ファンならずとも気になる人は多いのではないでしょうか。

ファンの方々からの「伊達と同じスペックのラケットを販売してほしい」というご要望にお応えし、今回発売するラケットは重量やバランス、グリップサイズなど全て同じ仕様になっております。さらに特典として、ラケットには伊達の「サインプリント」が入り、「特製ケース」と「伊達公子-ヨネックス ヒストリーフォトブック」をセットにして販売致します。

お正月のスポーツ特番で松岡修造とタッグ

今回はテニス対決に、今年9月に現役を引退した伊達公子が初登場。会場は、2020年東京五輪に向けた改修工事前最後のテニス開催となる東京・有明コロシアムで、伊達は松岡修造とペアを組み、とんねるずチームには、錦織圭のコーチでもあるマイケル・チャンと、2017年ジャパンウイメンズオープン準優勝の加藤未唯が助っ人として参戦する。

2017年に引退した野球選手

井口資仁

史上初の新人初ゲーム満塁本塁打 メジャーでチャンピオンリング獲得

 1996年に青山学院大から逆指名でドラフト1位入団。1年目から強打の遊撃手として順調なプロ人生のスタートを切る。その年の5月の近鉄戦でデビューすると、いきなり史上初の新人初ゲーム満塁本塁打も記録。99年には王貞治率いるダイエー(現ソフトバンク・ホークス)の主軸として初のリーグ優勝、日本一に貢献した。
 その後は2004年に、かねてからの夢だったメジャーリーグ挑戦を表明してホワイトソックス入り。ここでもバント、右打ちと自己犠牲の二番打者としてチームのワールドシリーズ制覇の原動力となりチャンピオンリングを手にした。

引退試合で9回裏に劇的同点弾

球場全体が井口資仁の本塁打に震えた。
8回にも大谷智久が一死二塁から西川遥輝に適時打を浴びて1-3とリードを広げられた。
しかし9回裏、試合前に伊東監督が「6番・指名打者で全部出てもらうつもり」と語っていた井口が無死一塁で打席に入り、バックスクリーン右横に飛び込む同点本塁打。自らの引退試合に花を添えた。

引退後はロッテ監督に就任

引退試合で値千金の同点本塁打を放った井口は、来季からロッテの監督に就任。11月10日から12日まで台湾で行われたチャイニーズ・タイペイ代表戦で初めて指揮を取り、3連勝を飾った。今季球団ワーストとなる87敗を喫したロッテを、どのように立て直すか注目だ。

片岡治大

34歳の若さで引退「まだまだ走りたい」

今季はケガでプロ入り後初の1軍出場なしに終わった片岡治大(巨人)。「まだまだ走りたい」とリハビリに励むも叶(かな)わず34歳の若さで引退。「悔しさのほうが大きいです」と心境を吐露した。

4年連続で盗塁王を獲得 球界屈指のスピードスター

 宇都宮学園高(現文星芸大附)から社会人・東京ガスを経て、2004年のドラフト3位で西武に入団。ルーキーイヤーから81試合の出場を果たすと、2年目には118試合の出場で打率.292をマーク。3年目に38盗塁で盗塁王に輝くと、そこから4年連続で盗塁王を獲得するなど球界屈指のスピードスターとして活躍した。
 2008年には、日本シリーズ第7戦で見せたギャンブルスタートの同点生還がチームを日本一に導いた“神走塁”として話題に。2009年には日本代表の一員としてWBCの連覇にも貢献。

引退後は二軍内野守備走塁コーチに

来年からは二軍内野守備走塁コーチとして、巨人を支えていく。
片岡も「これからは指導者として、培ってきた全てを伝えていければと思います」と意気込む。

川上憲伸

2004年沢村賞 メジャーにも挑戦し日米通算125勝

プロ1年目に14勝を挙げて新人王、2004年には最多勝で中日のリーグ優勝に貢献し、沢村賞も受賞した名投手。今年3月19日にテレビ番組内で引退を表明しました。

通算125勝。2000年代前半、高橋由、松井秀喜、清原和博らを擁する巨人の強力打線を気迫で抑え込んだ投球は、ファンの記憶に刻み込まれている。

岩村明憲

ヤクルトで3年連続3割30本塁打の活躍後メジャーに移籍

9月10日の試合を最後に引退。ドラフト2位でヤクルトに入団後、デビルレイズなどMLB3球団に所属。その後、楽天からヤクルト、福島ホープスまで、20年の現役生活だった。
プロ3年目の1999年に1軍へ定着すると、2000年には池山からサードの定位置を奪取。18本塁打を放ち、注目を集める。
背番号1となってからは、2002年に140試合フル出場。初の3割台となる打率.320をマークした。3番に定着した岩村は、2004年には44本塁打と長打力も備えたバッターへと進化。2005年、2006年は3割、30本塁打の中心打者として君臨するも、2006年オフにポスティングシステムでデビルレイズ(当時)に移籍。

森野将彦

中日の中心選手として4度のリーグ優勝と1度の日本一に貢献

1997年、中日に入団。落合博満監督の下、4度のリーグ優勝と1度の日本一に主力として貢献。攻守にわたってドラゴンズ黄金時代を支えた
デビューは鮮烈そのもの。1年目の6月には待望の一軍入り。そして8月29日の初スタメンでヤクルト・ブロス投手からライトスタンドへ運ぶプロ入り初アーチを記録する。そのままとんとん拍子でレギュラー奪取かと期待したものの、プロの域に達していなかった守備が足を引っ張り、8年の月日を要し、ようやく2005年のシーズンからスタメンに名を連ねる回数が増え始めた。

江草仁貴

現役生活15年 涙の引退試合

広島・江草が15年間の現役生活に終止符を打った9月27日のウエスタン・リーグ、阪神戦。同じく引退試合に臨んでいたかつての盟友・狩野と1打席限定で真剣勝負をした。渾身(こんしん)の134キロ直球を投げ込み、結果は左翼線二塁打。慣れ親しんだ甲子園のマウンドを降りると、涙が自然と頬を伝った。
1980年(昭55)9月3日、広島県福山市生まれの37歳。盈進、専大を経て、02年ドラフト自由枠で阪神入団。シーズン50試合以上登板を4度こなした。11年5月にトレードで西武移籍。12年3月に再びトレードで移籍した広島では6年間で通算52試合に登板した。1メートル78、83キロ。左投げ左打ち。

飯山裕志

日本ハム一筋20年の守備職人

日本ハムの飯山裕志が15日、今季限りでの引退を表明した。
飯山は鹿児島・れいめい高から1997年ドラフト4位で入団。今季まで日本ハム一筋20年で、5度のリーグ優勝、2度の日本一に貢献。2012年10月31日の巨人との日本シリーズ第4戦では延長12回に西村からサヨナラ打を放った。

狩野恵輔

“ツキのない野球人生”から「代打の神様」へ

時は07年。狩野は、前年にウエスタン・リーグ首位打者を獲得し、7年目のシーズンにして浅井良、野口寿浩を押しのけて正捕手・矢野燿大の第2捕手の座を勝ち取った。
ヘルニアの影響で13年には育成選手契約にもなったし、支配下登録選手に復帰しても、二軍生活が多かった。そして15年、一軍に昇格すると代打で起用されることが増え、当時『代打の神様』だった関本賢太郎が戦線を離れると、ここ一番の代打で狩野が起用されることになり、きっちり結果も出しました。16年には名実ともに『代打の神様』に就任。

安藤優也

阪神一筋16年

2002年にトヨタ自動車から阪神に入団。03年はリリーフ、05年は先発としてリーグ優勝に貢献。通算77勝66敗11S、92HP

松本哲也

育成選手枠から新人王を獲得した「育成の星」

2006年育成ドラフト3位で巨人に入団。09年にはレギュラーに定着して新人王とゴールデングラブ賞に輝いています。

11年間の現役生活を終えた松本は、来季からは巨人の三軍外野総合コーチとして、育成選手たちを指導する立場になる。
松本は「僕には“夢は正夢”という好きな言葉があります。その夢を指導者として次の夢に向かって、正夢になれるようにこれからもっと頑張っていきたいと思います」と決意を述べた。
▼ 松本哲也
プロ通算:591試 率.263 本0 点57 盗65

相川亮二

現役生活23年 横浜・ヤクルト・巨人の3球団でプレー

横浜、ヤクルト、巨人の3球団でプレーし、23年の現役生活を送った相川は「プロ野球でここまでできたのは、監督、コーチ、球団関係者の方々に素晴らしいサポートをしていただいた」ことを挙げた。
通算成績:1508試 率.260 本69 点475

藤村大介

2011年に盗塁王 28歳という若さで引退

藤村は子供の頃から憧れていた巨人に、2007年高校生ドラフト1位で入団。プロ入りしてから3年間は一軍出場がなかった藤村だが、プロ入り4年目に28盗塁をマークし盗塁王に輝いた。翌12年は二塁手のレギュラー格として、リーグ優勝、日本一に貢献した。
子供の頃からの目標を達成した藤村だったが、2013年以降は出場機会が激減。プロ10年目の今季は一軍出場がなく、球団から戦力外通告を受け、現役を引退することを決意した。
プロ入りした08年から3年間一軍出場のなかった藤村の11年の年俸は640万円(推定)。この年も開幕をファームで迎えるが、5月10日の横浜戦でプロ初出場を果たすと、13日の広島戦でプロ初盗塁を記録。26日のソフトバンク戦で、1試合2盗塁を決めるなど、同月は月間6盗塁をマークした。
6月以降も盗塁を積み重ねていき、最終的には28盗塁をマークし、盗塁王のタイトルを獲得。

2017年に引退したサッカー選手

加地亮

「記者会見ですべてを話そうと思います」

「20年間のプロサッカー生活から引退することを決断しました。これまで応援してくださった皆さん、在籍したすべてのクラブの皆さん、ありがとうございました」
「こういうコメントは苦手なので、記者会見ですべてを話そうと思います」

引退記者会見は12月27日の予定です。

ジーコジャパン時代の不動の右サイドバック ドイツW杯出場 

 滝川二高出身の加地はC大阪でプロ生活を始め、大分を経て2002年にFC東京へ加入。国内を代表するサイドバックへと成長し、2006年から所属したG大阪では、AFCチャンピオンズリーグ制覇など数々のタイトル獲得に貢献したほか、個人ではJリーグベストイレブンの受賞も経験した。
 日本代表としてはジーコジャパン時代の2003年からプレーし、2006年ドイツW杯にも出場。国際Aマッチ通算64試合に出場し、2得点を記録した。

石川直宏

「皆さんの活力になるプレーにクエスチョンがついた」

引退の直接の理由は「自分が皆さんの活力になるプレーをできるかというと、クエスチョンマークがついた。プレーを続けるべきではないと判断した」からだった。

“FC東京のレジェンド” 2009年ベストイレブン獲得

 FW石川直宏は横浜FMの下部組織で育ち、2000年にトップデビュー。2002年にFC東京へ移籍してから出場試合数を延ばし、2009年にはベストイレブンも獲得。

引退後“初仕事”で若者たちに熱いアドバイス

12月6日には引退後の初仕事となるイベントに参加。一般招待された学生などに対してさまざまなアドバイスを行っています。

――プロに進むときに大きな決断があったと思いますが、考えていたことや決め手になった言葉は?
「プロになるかどうかは、最後までわからなくて、ギリギリでした。中学や高校まで体が小さくて、人よりもスピードもパワーもなくて葛藤していました。何で勝負できるかを考え、得意なことと不得意なことを明確にして毎日練習していましたね」
「そういうものを信じてやり続けると、繋がることがあります。練習や自分の思いが、プロになりたいという思いに繋がる。その繋がる作業を地道にやり続ける。自分のなりたい姿を想像して、そこから細かく逆算してというよりも、なりたい自分をイメージしてどれだけ信念を持ってやれるか」

フランチェスコ・トッティ

「私の人生の第一章が終わり、別の重要な任務が始まった」

インタビューに応じたトッティは「私の人生の第一章が終わり、ディレクターとして別の重要な任務が始まった。ピッチで見せたようなインパクトを与えられるといいね」と報告
「これまでサッカーやチームへの貢献だけを考えてきたが、5月28日(セリエA最終節ジェノア戦)で終わった。今は新たなページをめくり、新たな役割と新たな挑戦について考えなければいけない」と話した。

ローマ一筋の“ローマの王子” イタリア代表でも活躍

▽ローマに生まれローマ一筋のキャリアを築き、“ローマの王子”としてサポーターはもちろん、多くのフットボーラーからの尊敬を集めるトッティは、1993年3月28日にわずか16歳でセリエAデビュー。ここまで公式戦782試合に出場して306ゴールを記録するなど、ローマの象徴として活躍してきた。25シーズン過ごしてきたローマでは、2000-01シーズンのスクデット獲得のほか、2度のコッパ・イタリア制覇を経験している。
▽また、1998年10月にデビューし、2006年までプレーしたイタリア代表では、59試合に出場して9ゴールを挙げていた。

引退後はローマのディレクターに 指導者も目指す

▽下部組織時代を含め、28年間を過ごしたジャロロッソ一筋のキャリアを終えたトッティ氏は、先日にローマの幹部入りを発表。そして、同氏は8日に行われたトリゴリアでのトレーニングを、モンチSD(スポーツ・ディレクター)や、先日に現役引退を発表してチームマネージャーに就任した元イタリア代表GKモルガン・デ・サンクティス氏と共に視察した。
引退後は現役時代、キャリアの全てを過ごしたローマでフロント入りをしていたトッティ。
しかしこの度、将来を見据えてUEFAのBライセンスを取得することを決意した模様。『AIAC』で指導者の道へと一歩踏み出すことになるようだ。

フランク・ランパード

「キャリアを終える適切なタイミング」

「僕は、21年間にわたって素晴らしい時間を過ごした。今がプロのフットボーラーとしてのキャリアを終える適切なタイミングだと決めた」
「これまで、国内外から魅力的なオファーをもらってきた。けれど、38歳の今こそ、人生の新たな章をスタートすべきだと感じた」

チェルシーでクラブ史上最多の211ゴール W杯3回出場

 ウエスト・ハムの下部組織出身のランパードは1995年にプロデビュー。01年夏にチェルシーへ移籍すると、中心選手として長年チームを支え、13シーズンで648試合に出場し、クラブ史上最多の211ゴールを記録した。また、チェルシー在籍中にはプレミアリーグ優勝3回、FA杯優勝4回、リーグ杯優勝2回、そして欧州CL初制覇とヨーロッパリーグ制覇を経験。イングランド代表としては06年のドイツW杯、10年の南アフリカW杯、14年のブラジルW杯と3大会連続でメンバー入りを果たし、106キャップを記録した。

現在は解説者として活躍 「いつかはチェルシーの監督になりたい」

現在はイングランドで解説者として活躍中のランパード氏だが、将来的なチェルシー復帰について聞かれると「今はまだ勉強中だが、いつかはチェルシーの監督になりたい」と回答し、集まった大勢のチェルシーファンから、この日一番の歓声が上がった。

藤ヶ谷陽介

ガンバ大阪黄金期の守護神として活躍

▽G大阪は28日、GK藤ヶ谷陽介(36)の今シーズン限りでの現役引退を発表した。
▽藤ヶ谷は2005年にコンサドーレ札幌(現・北海道コンサドーレ札幌)から加入し、西野朗監督の下、J1リーグ、Jリーグカップ、2度の天皇杯、AFCチャンピオンズリーグの優勝に貢献。2014年のジュビロ磐田移籍を経て、2015年にG大阪復帰を果たすと、同年に前年から続くチームの天皇杯連覇を経験した。

「ガヤる」のワードがネット上で話題

失点につながるミスをしたプレーを揶揄した「ガヤる」のワードは、ネット上で話題となり、サッカー流行語アワードにノミネートされたことがある。SNSでも流行語に挙げられたほどで、ファン・サポーターから愛された選手でもあった。

シャビ・アロンソ

リバプール、レアル、バイエルン…ビッグクラブで数多くのタイトルを獲得

ソシエダの下部組織からトップチームデビューし評価を高めたシャビ・アロンソは、2004年にリバプール移籍。5シーズンにわたって主力として活躍し、チャンピオンズリーグ制覇などを経験した。その後、レアル・マドリーで5シーズンを過ごした後、2014年にバイエルン入りした。また、スペイン代表として2008年と2012年のユーロ、2010年のワールドカップ優勝を経験した。

アンドレア・ピルロ

“稀代の天才”や“稀代のレジスタ”と呼ばれた名手「もう十分やった」

正確無比な長短のパスでゲームをコントロールし、的確な状況判断を可能とする高度な戦術眼を持ち合わせ、フリーキックの名手として知られるピルロ。1995年に地元ブレシアでプロ生活をスタートさせると、インテルやミラン、ユベントスといったセリエAを代表するビッグクラブを渡り歩き、数々のタイトル獲得に貢献してきた。さらにイタリア代表としては、116試合に出場し、2006年には母国を世界王者に導いていた。

その他のスポーツ

日馬富士(大相撲)

「横綱の名前が汚れてしまう」

「ケガを負わせてしまったことに対し、横綱の責任を感じ、本日をもって引退させていただきます」とコメントし、深々と頭を下げた日馬富士。
引退を決めた理由について「横綱の名前が汚れてしまう」と語った。

引退のきっかけは暴行事件

 2度にわたった任意の事情聴取で、日馬富士は暴行の事実を認めている。横綱白鵬から説教を受けていた際の態度に腹を立て、抵抗していない貴ノ岩の頭を素手やカラオケのリモコンで一方的に何度も殴打した疑いがある。

12月11日に傷害容疑で書類送検 現在は鳥取地検の処分待ち

 大相撲の元横綱日馬富士(33)が平幕貴ノ岩(27)に暴行した問題で、鳥取県警は11日午前、傷害容疑で日馬富士を書類送検した。貴ノ岩側の処罰感情や、けがの程度などから検察に起訴を求める「厳重処分」の意見を付けたとみられる。両者の間で示談は行われていないという。

木村沙織(バレーボール)

「負けて悔しいという気持ちが薄れた」

「木村は4大会連続で五輪出場を成し遂げた“レジェンド”です。まだやれるという声もありましたが、『負けて悔しいという気持ちが薄れた』ことを理由に引退を決めました」(スポーツ紙記者)

リオ五輪をバレーボール人生の集大成に…昨年10月に引退表明

「木村はリオ五輪をバレーボール人生の集大成にしたいと語って大会に臨んだこともあって、大会後の進路が注目されていました。引退やビーチ転向も囁かれましたが、東レ・アローズと契約を延長したので、一安心かと思いましたが、今シーズン限りでの引退とは‥‥。残念ですが、彼女のラストを見守りたいものです」(スポーツライター)

スポーツキャスターやリポーターにはならない

バレーボール日本代表の絶対的エースとして活躍してきた木村は、今年3月に現役を引退。引退後にスポーツキャスターやリポーターなどの道を歩むケースも多いが、木村は今のところ表舞台に出るつもりはないという。
現在コートで頑張っている選手やチームの邪魔をしたくないという気持ちも強く、木村は今後「ちゃんとチケット買って、そういうところで貢献」しながら会場で応援したいという願望を持っている。

ウサイン・ボルト(陸上)

現役最後のレースはまさかの途中棄権

オリンピックでは北京大会から3大会連続で100mや200m、400mリレーの三冠(北京のリレーはのちに剥奪)を達成して「人類最速の男」と呼ばれたボルトは、2017年8月の世界陸上ロンドン大会を最後に現役を引退しました。そのレースでは、まさかの結末が…

今大会後の現役引退を表明していたウサイン・ボルト(ジャマイカ・30歳)。個人種目で唯一エントリーしていた100mで3位に終わると、4×100mリレー決勝では左太もも裏を痛めてまさかの途中棄権。
2008年北京五輪で100m、200mを世界記録で制して以降、大舞台では無敵を誇ってきたが、華々しい競技人生は最後に暗転した。予期せぬ最終章となったが、その栄光が色褪(あ)せることはない。

15年に引退を表明してからは、サッカー選手転身に意欲を見せていることでたびたび話題になっています。

サッカー選手への転身をまだ諦めず

下の記事は今年10月下旬のものですが、サッカー選手転身の夢をまだ諦めていないようです。

 22日に行われたF1アメリカグランプリの観戦に訪れたボルト氏は、報道陣の取材に応じた際、今後のプランについて尋ねられると、「サッカー選手になるのは僕の個人的な目標の一つだ。他人がそれについてどう言うかなんて気にしていないよ。サッカー選手として本当にやっていけるのか試してみたいんだ」とコメント。以前からたびたび公言してきたサッカー選手への転身をまだ諦めていないことを明かした。

大仁田厚(プロレス)

10月31日に“7度目”の引退試合

85年、左膝の負傷を理由に引退。タレント活動や飲食店を経営するが、89年にFMWを旗揚げ。「ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ」などの過激路線で人気を獲得するも95年に2度目の引退試合。96年、現役復帰。以後、引退と復帰を繰り返す。2001年には明大政経学部経済学科に入学。同年、自民党から参院選に出馬し当選。今年10月31日、7度目の引退試合を行った。

「休業とか長期欠場って言葉が使えないんです」

大仁田 なんか「休業」とか「長期欠場」っていう言葉が使えないんですよね。その時その時が真剣勝負だから、やはり気持ちとしては「引退」を選ぶんです。もちろん毎回、本当に辞めるつもりでいるんですけど、いつも「俺はプロレスが好きだ!」っていう気持ちが上回っちゃうんですよ。

内山高志(ボクシング)

日本歴代3位の11回連続防衛

2010年1月にWBA世界スーパーフェザー級タイトルを獲得した内山は、その後、5年間にわたりタイトルを防衛。連続11度の防衛は日本歴代3位の長期政権だった。しかし2016年4月にWBA世界スーパーフェザー級暫定王者だったジェスレル・コラレスに敗れ王座陥落。8ヶ月後に行われた再戦でも敗れ、これが現役最後の試合になった。
7月に引退を表明したボクシング元WBA世界スーパーフェザー級王者・内山高志氏(38)は功労賞を受賞。現在はジム経営を目指して物件を探しており「見つかれば来春にでも始めたい」と明かした。

武幸四郎(競馬)

G1・6勝 20年の騎手生活にピリオド

2月26日のレースを最後に引退。昨年12月に調教師試験に合格、規定により騎手との兼務が禁止されていることから、今後は調教師としての道を歩む。通算693勝、重賞はG1・6勝を含む28勝。
GⅠ初勝利となった2000年の秋華賞、ティコティコタックは10番人気。03年のNHKマイルカップ、ウィンクリューガーは9番人気。6度勝ったGⅠで1番人気だったことは一度もない。
2月26日に行なわれたセレモニーで幸四郎は、「最高の形で騎手人生を終えられました」と語った。

田知本遥(柔道)

リオ五輪で金メダルも…「次に求める気持ちが湧いてこなかった」

リオデジャネイロ五輪女子柔道70キロ級の金メダリスト、田知本遥(27)は10月に現役引退を表明。「柔道家として、この道で次に求める気持ちが湧いてこなかったこと」を引退の理由に挙げている。引退後は所属のALSOKに籍をおいたまま、今春入学した筑波大大学院で学業に専念するという彼女。「将来はアフリカや欧州で柔道の普及に取り組む夢もあるそうです」

柏原竜二(陸上)

箱根駅伝で4年連続区間賞の「新・山の神」

4月3日、引退を発表。所属する富士通のアメフトチームのマネージャーに就任、スタッフとして支援する。
柏原は2009年から東洋大の山登り5区走者として4年連続区間賞を獲得。順天堂大の今井正人(現・トヨタ自動車九州)に続く「新・山の神」の異名を取ったが、卒業後はケガに苦しんだ。